氏寺旧記
古文書を研究している賀田在住の濱中良平氏が解読した、東禅寺に伝わる 氏寺旧記 (代々住んだ和尚の記録)の9ページから15ページ迄を紹介します。
是より良重和尚専伝記並びに本末出入(本寺末社の争い事)殿堂建立の事 慶安二年(1649年)丑6月良重和尚、川口村吸泉寺より嘉田村長福寺へ御移って来ました。その時の大庄屋は
北左兵衛殿で、庄屋は又左エ門でした。右の和尚の生国は肥前国杵嶋群北方村で、父の名は浦原惣左エ門殿と言い拾四人扶持なり。剃髪の師は、同国同群川原村普門山圓鷹寺八世花岳宗藝和尚なり。圓鷹寺は弐百石の領地なり。十三歳で出家、十九歳で関東へ下り、数十年相詰寛永十三年頃当国へ御登り、長嶋常光院にて大順和尚の初法撞の江湖頭を務め即ち嗣法相続共に同じで、前名は宗運と言いました。勢州河口村吸泉寺へ御移り、慶安元年子三月十五日に参内した。同慶安二年丑六月尾鷲浦光林寺伝翁和尚と同所地方手代奥野三右エ門殿肝いりにて、嘉田村長福寺へ来ました。御歳四拾四でした。同九月八日曽根浦安定寺の住職蓮達和尚と本寺末社の争い事が始まり殊の外御苦労しましたが、終わりに利にかなった勝利を得ました。即ち瑠璃光山長福寺を佛向山東禅寺と改めました。佛向山と言うのは、寺の前に岩が有り佛向石と言い又仏法石とも言いました。此の石の高さは十八尋、(32m)廻り三拾三尋(59m)有り此の石を山号にしました。万治元年(1658年)に寺の普請に取り懸かり桁行拾間に奥行六間余りの客殿を建てました。今の本堂は是です。時の庄屋は榎本又左エ門殿法名は正庵玄雅です。万治三年五月十八日死去す。明年寛文元年(1661年)丑極月(十二月)より寅六月迄大疫病が発生しました。在任中七十三人死にました。此の年の二月五日良重和尚五拾四歳にて亡くなりました。御弟子壱人有りその名を重鉄と言い今の大法和尚です。在住拾四年なり。焼香等の義は良重和尚病気の内に、有馬村安楽寺の能純和尚並に新宮市三輪奇浦龍雲寺の宗伯和尚師を同じくする仲間なので、病養中に飛脚を差し向けて二月四日嘉田村へ尊び来て次の五日亡くなりました。即ち焼香は、能純和尚並に宗伯和尚が相務めました。東禅寺中興の祖です。月船禅師は良重和尚の師弟です。 寛文二年(1662年)寅四月納室和尚和州西ノ川正法寺より嘉田村東禅寺へ来ました。長嶋常光院大順和尚と本寺末社の言い争いを初め殊の外むつかしき争いにて安楽寺宗鷹寺(新宮市)の仲立ちにて納まったけれども目安(訴訟)並に免状録が常光院より東禅寺へ末寺赦免の手形が壱通残っています。その後勢州(伊勢)田丸廣泰寺鉄すい和尚と法縁の筋跡が有り、本山末社の約束の承諾を致しました。即ち神照山廣泰寺の二代物先和尚を東禅寺の開山決め引き続き伝法鉄すい和尚より受けました。是より東禅寺が本寺と決まり世碑相続出来ました。在居拾年延宝元丑年(1673年)有馬村安楽寺へ移り彼の地十三世納室暁浦和尚と名のりました。御弟子三人居られ恵訓和尚並に別門和尚で全益は平僧であった。右和尚丑の四月安楽寺へ入院同十一月二十一日の夜加田村で火事が有り、家数三拾七軒焼失し火元は重右エ門さんでした。子供三人が焼死しました。
物先和尚は東禅寺へ莫大の勤功有りました。三世(長福寺より数えて三世物先和尚)ですがその時は寺の相続や世碑は立てず前の住山に建てました。初代能純和尚も同じでした。火事は大法和尚の代でした。
延宝元丑年(1673)大法和尚、和州桑原龍念寺より嘉田村東禅寺へ来ました。生国は当国(和歌山)加茂の河内です。父の名は又兵衛と申しました。法名は風山陰涼、御母の法名は浄心妙清、一五歳にて出家。剃髪の師は東禅寺の良重和尚なり。長く寺に居ました。後永平寺に常湯偏(じょうゆべ)参りに行き、初めは重鉄と名乗り後に大法和尚紹雨和尚と改めるなり。嗣法は納室和尚です。後亦廣泰寺の鉄すい和尚より教えを受けました。
仏事作善の儀式は此の和尚が定めました。延法五年(1677年)巳の四月一五日京都に参内する。東禅寺内普請は此の和尚の代に決めるなり。貞享二年1685)丑年鐘鋳並びに半鐘鍔口の三具足が揃いました。
庄屋又左エ門の代。大門建立の諸材木は此の和尚がお取り寄せなされました。城ヶ峯へ諸木多く植えたので破損(赤字)普請に成り江湖(世間)から寄付してもらいました。剃髪の御弟子壱人俗名を万三郎と言います。大法和尚
が万三郎の名前を改めて卍山(まんざん)と致しました。四世文嶺和尚がこの人です。外にお弟子三人旭州和尚と外の二人は平僧で祖湛と良伝と言いました。元禄五壬申年(1692)霜月(十一月)二十三日五十三歳にて亡くなりました。有馬村安楽寺全恵和尚が焼香しました。富寺三世大法紹雨と申します。

是より良重和尚専伝記並びに本末出入(本寺末社の争い事)殿堂建立の事 慶安二年(1649年)丑6月良重和尚、川口村吸泉寺より嘉田村長福寺へ御移って来ました。その時の大庄屋は
北左兵衛殿で、庄屋は又左エ門でした。右の和尚の生国は肥前国杵嶋群北方村で、父の名は浦原惣左エ門殿と言い拾四人扶持なり。剃髪の師は、同国同群川原村普門山圓鷹寺八世花岳宗藝和尚なり。圓鷹寺は弐百石の領地なり。十三歳で出家、十九歳で関東へ下り、数十年相詰寛永十三年頃当国へ御登り、長嶋常光院にて大順和尚の初法撞の江湖頭を務め即ち嗣法相続共に同じで、前名は宗運と言いました。勢州河口村吸泉寺へ御移り、慶安元年子三月十五日に参内した。同慶安二年丑六月尾鷲浦光林寺伝翁和尚と同所地方手代奥野三右エ門殿肝いりにて、嘉田村長福寺へ来ました。御歳四拾四でした。同九月八日曽根浦安定寺の住職蓮達和尚と本寺末社の争い事が始まり殊の外御苦労しましたが、終わりに利にかなった勝利を得ました。即ち瑠璃光山長福寺を佛向山東禅寺と改めました。佛向山と言うのは、寺の前に岩が有り佛向石と言い又仏法石とも言いました。此の石の高さは十八尋、(32m)廻り三拾三尋(59m)有り此の石を山号にしました。万治元年(1658年)に寺の普請に取り懸かり桁行拾間に奥行六間余りの客殿を建てました。今の本堂は是です。時の庄屋は榎本又左エ門殿法名は正庵玄雅です。万治三年五月十八日死去す。明年寛文元年(1661年)丑極月(十二月)より寅六月迄大疫病が発生しました。在任中七十三人死にました。此の年の二月五日良重和尚五拾四歳にて亡くなりました。御弟子壱人有りその名を重鉄と言い今の大法和尚です。在住拾四年なり。焼香等の義は良重和尚病気の内に、有馬村安楽寺の能純和尚並に新宮市三輪奇浦龍雲寺の宗伯和尚師を同じくする仲間なので、病養中に飛脚を差し向けて二月四日嘉田村へ尊び来て次の五日亡くなりました。即ち焼香は、能純和尚並に宗伯和尚が相務めました。東禅寺中興の祖です。月船禅師は良重和尚の師弟です。 寛文二年(1662年)寅四月納室和尚和州西ノ川正法寺より嘉田村東禅寺へ来ました。長嶋常光院大順和尚と本寺末社の言い争いを初め殊の外むつかしき争いにて安楽寺宗鷹寺(新宮市)の仲立ちにて納まったけれども目安(訴訟)並に免状録が常光院より東禅寺へ末寺赦免の手形が壱通残っています。その後勢州(伊勢)田丸廣泰寺鉄すい和尚と法縁の筋跡が有り、本山末社の約束の承諾を致しました。即ち神照山廣泰寺の二代物先和尚を東禅寺の開山決め引き続き伝法鉄すい和尚より受けました。是より東禅寺が本寺と決まり世碑相続出来ました。在居拾年延宝元丑年(1673年)有馬村安楽寺へ移り彼の地十三世納室暁浦和尚と名のりました。御弟子三人居られ恵訓和尚並に別門和尚で全益は平僧であった。右和尚丑の四月安楽寺へ入院同十一月二十一日の夜加田村で火事が有り、家数三拾七軒焼失し火元は重右エ門さんでした。子供三人が焼死しました。
物先和尚は東禅寺へ莫大の勤功有りました。三世(長福寺より数えて三世物先和尚)ですがその時は寺の相続や世碑は立てず前の住山に建てました。初代能純和尚も同じでした。火事は大法和尚の代でした。
延宝元丑年(1673)大法和尚、和州桑原龍念寺より嘉田村東禅寺へ来ました。生国は当国(和歌山)加茂の河内です。父の名は又兵衛と申しました。法名は風山陰涼、御母の法名は浄心妙清、一五歳にて出家。剃髪の師は東禅寺の良重和尚なり。長く寺に居ました。後永平寺に常湯偏(じょうゆべ)参りに行き、初めは重鉄と名乗り後に大法和尚紹雨和尚と改めるなり。嗣法は納室和尚です。後亦廣泰寺の鉄すい和尚より教えを受けました。
仏事作善の儀式は此の和尚が定めました。延法五年(1677年)巳の四月一五日京都に参内する。東禅寺内普請は此の和尚の代に決めるなり。貞享二年1685)丑年鐘鋳並びに半鐘鍔口の三具足が揃いました。
庄屋又左エ門の代。大門建立の諸材木は此の和尚がお取り寄せなされました。城ヶ峯へ諸木多く植えたので破損(赤字)普請に成り江湖(世間)から寄付してもらいました。剃髪の御弟子壱人俗名を万三郎と言います。大法和尚
が万三郎の名前を改めて卍山(まんざん)と致しました。四世文嶺和尚がこの人です。外にお弟子三人旭州和尚と外の二人は平僧で祖湛と良伝と言いました。元禄五壬申年(1692)霜月(十一月)二十三日五十三歳にて亡くなりました。有馬村安楽寺全恵和尚が焼香しました。富寺三世大法紹雨と申します。
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